映画「教皇選挙」感想殴り書き

1. まえがき

初めに言っておきます。
私は特定の「宗教」を信仰はしていません。

私は「宗教」を人よりは一歩引いた、俯瞰的な見方をしていると思っています。

しいて言えば、私は日本独自の「神道」の考え方が好きです。
「好き」「信じている」という言葉の間には、薄いようで厚い意味の違いがあると思っている次第です。

大学において、私は「文化人類学」と「宗教」についてずっと学び続けてきました。
教材に使われる映画も、資料も文献も、全てが必ず「宗教」に結びつくものばかり。
ぜんぜん違う学問に見えますが、文化人類学と宗教は切っても切れない関係にあります。

「人間」を学ぶのであれば、「思考」と「信仰」は必須で学ぶ必要のある概念です。

この映画の予告を見たとき、私は「単なるミステリーサスペンス映画」だと考えていました。
よくある「スキャンダル」を取り上げ、問題提起をしている映画なのだ、と。
映画好きの友人が熱量を持って勧めてきましたが、私にしては珍しく、あまり興味がわきませんでした。

見る決心をしたのは、「フランシスコ教皇」の訃報があったからです。
私は彼にまつわる映画を授業で見ていました。「ローマ法王になる日まで」です。

この映画の話はまぁ長くなるので省きますが、私はこの人が好きでした。

彼が亡くなり、現実で「コンクラーヴェ」が開かれようというタイミングでこの映画をスルーしてしまうのは、なんだか失礼な気がしたんです。
結果的に後悔しないで済んだのでヨシ!

話がだいぶ触れて脇道に逸れまくりますが今回は許してください。思うことが多すぎる。

2. 「現代」のキリスト教

去年私は映画「ミッション」の感想を書きました。
あの映画は総じて、私に「信仰の誇り」を見せつけてきました。
誇りをもって、周辺国の様々な事情とか権力とかと戦ったわけです。

今回の「宗教戦争」では、そういった「土地間のいざこざ」とかは関係なく、「多様化する世界でキリスト教がどう生き残っていくか」を描いているなと感じました。

「宗教は生きている」、これはまさしくその通りです。
言葉も生き物だとよく言われますが、宗教も似ています。

現代社会において、過剰なまでに言及されている「多様性」というのは、宗教にももちろん絡んできます。

アメリカに行ったとき、「日本人はみんな無宗教なんでしょ?」と言われて大層困りました

一神教を信仰している人に「神道」を説明したところで理解されるわけありません。
「海とか山とか、そのすべてに神様や魂が宿っている」なんて思想、向こうからしたら荒唐無稽なわけで。

でも、「理解できない」からといって、許容せず拒絶するのはよくないわけですよ。
個々の考えは尊重されるべきですから。主張しすぎてバケモンになってる愚か者も一定数世の中にはいますけども

「この人はこうである」「こうにちがいない」という「確信」は、時には様々な障害になりえます。
「アンコンシャスバイアス」とかいうように、「無意識な価値観の押し付け」は損しか生みません

そもそも、キリスト教もイスラム教も、信仰している神そのものは同一存在のハズです。
同じ神を信仰している一神教なのに、争い合い差別し合っているのは、俯瞰的に見て心底不思議です。

グローバル化している現代において、人種で人間をフィルタリングするのは不可能です。
誰もが悪人になり得るし、誰もが英雄になり得る。誰にでもチャンスがある時代になったわけです。

大昔、キリスト教ができて間もないころとは次元が違うんですね。

宗教を「生きている」と認識し、それに都度どうやって向き合うかを考え続ける必要性と、現代におけるキリスト教が出くわしている問題をしっかり描写していて、見事だったと思います。

3. 「人間である」ということ

私はこの映画を見て、「人間」であるという事実からは誰も逃れられないのだということを改めて感じました。

そもそも、何をもって人間は「人間である」と言えるのでしょうか。
定義するのって難しいと思いません?

生物学的に人間だから?
言葉や道具を使う知能があるから?
社会構造を持つから?
信仰心を持っているから?
愛を知っているから?
心があるから?

私は、ドイツの哲学者である「ハンナ・アーレント」が示した「人間」の条件を、ずっと指標にしています。
大学の宗教学講義において見た映画と、彼女が書いた本の内容は私の中での「人間像」を確立してくれた気がします。

彼女はドイツ系ユダヤ人です。これで大体察しがつくんじゃない?
彼女はナチスドイツが掲げた「全体主義」を痛烈に批判し続けました。

でも私が言いたいのは彼女の生い立ちじゃありません。
彼女は「人間はなぜ人間だと言えるのか」を著しています。

彼女は、かの「アウシュビッツ強制収容所」の責任者であった、「アードルフ・アイヒマン」の裁判に立ち合い、裁判記録を残しました。
もちろんユダヤ人であるハンナ・アーレント本人も、迫害を受け亡命した一人です。

世界中の人々は、アイヒマンを「極悪人」だと批判しました。
当然の反応であると、授業を受けている私は思いました。当事者でない私ですら、ナチスドイツが行った鬼畜の所業は許されるべきではないと考えていますから。

しかし、当事者だったハンナ・アーレントは違いました。

違ったんです。

ハンナは、アイヒマンを「一人のドイツ市民」として扱いました

アイヒマンは裁判中、ずっと「国家の命令に従っただけ」「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」と語りました。
普通の人はこれを聞いて、激昂するでしょう。なんてひどいやつなんだ、と。
でも、アイヒマンはこれを心から言っているんです。
何故なら、「自分で考えてやったわけではない」から。

全体主義の中で、個人というのはただの「歯車」にすぎません。
国家の歯車の一つに過ぎない彼に、いったい何の責任を問えるのでしょうか?
彼にいったい何の非があるのでしょうか?
ハンナは、「全体主義国家における個人の罪を裁くのは不可能である」としたんですね。

「歯車」が「人間」であるわけがないんですよ。
アイヒマンは、「人間」だけが持つ崇高な「思考する力」を放棄してしまったんです。
「思考を捨てた」ものはもはや「人間」ではない。
つまり、彼は自ら「人間」であることを拒否し、「歯車」になることを選んだということです。

全体主義の体制下において、誰もがいつの時代でもアイヒマンになり得るのだと、ハンナは記しました。

「世界最大の悪」というのは、平凡な人間がなんの動機も信念も邪心も持たずに行ったんです。

死んだ人間の事なんて考えない。
だって殺せと言われたから。
殺せって言われて殺しただけなのに、いったいそれの何が悪いの?

これを言った時点で、それはもう「人間」ではない。

「思考」をやめたとき、「人間」は「人間」ではなくなるのです。

ハンナは、これを「悪の陳腐さ」と表しています。言い得て妙。

はい、話がだいぶ逸れました。

映画と関係ある?って思ったでしょ。私も思った。
でもね。

枢機卿だって人間なんだなって思うわけ。

ローレンスさんは、いろんな周りの状況に揉まれまくります。
なんやいきなり枢機卿増えるわ、ナイジェリアの神父は昔とんでもねえ年齢差の少女とスキャンダルを起こしてるわ、それを出汁に引きずりおろそうとするとんでもねえやつはおるわ、えげつないステレオタイプ思想を持って他宗教を「ケダモノ」呼ばわりするだらしねぇおっさんはおるわ…
可哀想なくらいいろんな事情に取り巻かれるわけですよ。

でも、彼は「思考」をやめなかったんですね。

祈りに疑念を持つようになってしまったと、彼は言いました。
だから私に票を入れるなと。

でも、彼はいろんなスキャンダルに終止符を打って、自らが教皇になる「ビジョン」を確立させました。
結果はそのビジョン通りにはならなかったけれど、彼はスキャンダルにどう立ち向かうか「思考」して、実行したんです。

悩み、時には間違い、迷って、それでも善と悪を区別する。
彼は、まさしく「人間」でした。

4. 言語

これは趣味の話。

少なくとも判別できる言語だけでラテン語と英語とスペイン語とイタリア語が飛び交って脳が混乱しました。
多分ほかの言語もあったんだろうな…とかく「グローバル」を感じました。

前に見た映画「ミッション」はおおよそ1700年のお話ですから、当然神父はみーんな白人です。時代的に有色人種はまだまだ差別されて奴隷になるパターンが圧倒的でしたから。
そういう意味では、枢機卿に黒人の方や様々な出自の人がいて、分け隔てなく教皇候補として選ばれている光景は、「現代のキリスト教」をリアルに描写していていいなと感じました。

あと、ローレンスさんが亡き教皇の部屋の前にかかった布に押されたシーリングワックススタンプをバキバキに割って中に入るシーン。
あの後の「侵入したのか?」を英語で「Break」といっていたのがよかった。
「あれを壊したのか?」くらいのニュアンスに聞こえてよかったんだよね。ローレンスさんの気持ちを代弁したような言葉選びだと思いましたね。

英語字幕も丁寧に書かれていて、言語的観点から見ても面白かったです。

5. 完全に余談

ごめんこれだけ言わせて。

俳優陣豪華すぎるって。

Game of thronesとインターステラー、キングスマンに007、ハリーポッターなどなどからの俳優が枢機卿やってるの面白すぎるって。
初見で五度見くらいしたわ。

6. あとがき

ハンナ・アーレントは、「イエルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告」を執筆後、教授職を追われます。
その最後の講義を描いた映画において、彼女は講義をこう締めくくりました。

「思考の嵐がもたらすのは、知識ではありません。
 
 善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。

 私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。

 危機的状況にあっても考え抜くことで、破滅に至らぬように。」

ローレンスさんは、まさに彼女が求めた「思考する強さ」を持った人だったと言えるでしょう。
自分のことしか考えられない、過去に固執して前進するという「思考」をやめた枢機卿とは圧倒的に差があるはずです。

結末については、ここでは深く触れるつもりはありません。
現代では十分あり得る話ですし、筋も通っている。
あの人だって、あの状況下でも「思考」をやめず、流されず強くあり続けたんですから、教皇になって何ら不思議ではありませんからね。
性別がどうとか、身体がどうとか、関係ないです。
だって「人間」なんですから。

教皇は「人間」が務めるべきです。

ローマ教皇が亡くなった今、現実のキリスト教はどこへ向かうのでしょうね。